オペラ/座長

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何で南北を歌塗れにしたかったのかな…。原点は「エノケンの法界坊」。

日本の喜劇王「榎本健一」を認識した時に、彼は既に右足を失っていた。舞台上の怪我から発症した脱疽である。浅草オペラ出身で、ダミ声ながら歌が巧みで、CMソングを多く歌ったので、幼い頃から親しく感じていた。

学生になってからモノクロ映画を見て大感動。亡霊となった法界坊が謡曲高砂をワグナーで歌ったり、大合唱の野崎村連弾き(これは清川虹子と共演した「お染久松」)。舞台脚本も読んだ。法界坊の大切が「奴道成寺」のレビューだった!古典を変換する楽しさを彼の仕事から学んだ。

1983年に出演した早稲田銅鑼魔館(どらまかん)プロデュース「母の茶色の小瓶」、当時支配人だった森尻純夫氏の作&演出で、劇中に早稲田ハイ・ソサエティ・オーケストラ所属学生による生演奏という贅沢を経験した。

その時の曲目がスタンダードジャズを主にしたもので、後々「加納幸和事務所」第一回公演を森尻氏と提携した際、(早稲田)ハイソのメンバーにお願いしてエノケン風ミュージカルにしようと即決したのが「敷布(シーツ)を捲って虹色世界(レインボーワールド)」、南北絶筆「金幣~」を題材にしたものだった。

つまり南北とエノケンの合体が「花組芝居」の出発点だったのである。