【劇評】花組芝居の『レッド・コメディ』を観ながら、思い浮かんだ感想いくつか。


 さしたる根拠がないので、劇評には書きにくいことがある。

 今回の『レッド・コメディ』は、『一條大蔵譚』の長成が、意識されているような気がしてならなかった。加納幸和演じる葵は、柊木魏嫗として歌舞伎の舞台に立っていたとき、硫酸による暴行に巻き込まれた。本作のほとんどは、東新聞社主の田岡の庇護のもとに、狂気を癒やしているという設定になっている。

 狂気といったが、加納が演じる葵は、実にわがままいっぱいで、かわいらしい狂いであり、愛嬌にあふれている。青年川野に、いたずらを仕掛けたり、口をすっても憎まれたりはしない。

 『一條大蔵譚』の一条長成は、実は聡明な人物でありながら、平家を欺くために、清盛の妾常盤御前を手元に引き取り、阿呆のふりをしている。この「作り阿呆」が加納の芝居の組み立てに影響を与えているように思えてならなかった。

 もちろん具体的な確証はない。

 長成は、源氏の血筋を引き、源氏に心を寄せていた。『一條大蔵譚』の見どころは、幕切れに、長成りが作り阿呆をやめて正気を見せ、さらに阿呆に戻るあたりの落差にある。『レッド・コメディ』の終幕で、葵は赤姫の扮装をやめて、背広姿に戻る。このときの加納のきりっとした舞台姿に打たれた。

 赤姫として、顰蹙を買いつつ、愛嬌を振りまくのは、この浮世を逃れんがため。幕内の残酷にほとほと嫌気がさした葵が、川野の出征にあたって、現実の世界に戻ってくる。このあたりの趣向は、脚本の秋之桜子と構成の加納によって巧まれたように思う。
 
 余談ついでにいえば、赤姫の扮装で貫きながら、なぜ加納が地唄舞でよく知られる『黒髪』なのか、直感的に違和感があった。劇中では、主に竹本が用いられることもあって、なぜ、長唄でも踊られる『黒髪』を採用したのかがわからなかったのである。

 少し調べると、『黒髪』の作詞は、初世桜田治助、作曲は杵屋佐吉。天明四年十一月中村座初演の『大商蛭子島』に突き当たった。『名作歌舞伎全集十三巻』(東京創元新社)には、昭和三十七年六月「天明歌舞伎」と銘打って歌舞伎座で復活上演されたときの台本が収められている。改訂は戸部銀作である。

 本書の解説で、評論家の戸板康二は、「頼朝と政子とが二階で祝言の杯を交わし、新枕につく時、辰姫が鏡台に向かって髪をすき、嫉妬にかられて苦しむところには、メリヤスがはいるが、その歌詞しは今でも長唄でうたわれる「黒髪」である」と書いている。三〇一頁上段には、辰姫を勤めた六代目中村歌右衛門の写真が掲載されている。

 この記述は、第二場幸左衛門内奥座敷の場を指している。正木幸左衛門実は右兵衛の佐頼朝、おます実は時政の娘、政子の前。おふじ実は伊藤の娘、辰姫が登場人物である。上手の家体で、新枕を迎えている頼朝と政子の成り行きを、辰姫は見つめている。

 メリヤス(黒御簾音楽)として「黒髪」が入る。
 詞章は、
〽黒髪の、結ぼれたる思いには、解けて寝た夜の枕とて、
である。
 この間、鏡台に向かって辰姫は、髪をなでつけるうちに、二階の成り行きに腹を立てる。
 転じて、このメリヤスは、赤姫が髪梳きをするときに使われたから、『レッド・コメディ』で「黒髪」が使われたのは、深い思いがあってのこととわかる。
 花組芝居を観るのは、歌舞伎のどの狂言の引用だと当てる楽しみばかりではない。観客が自由な連想から、さまざまな演劇的な記憶を掘り起こすところにある。

 秋之、加納の趣向に出合って、観客が刺激を受けるところが何より楽しい。

 さらに蛇足になるけれども、劇の冒頭、黒のタキシードを着た六人の役者に、赤姫がからむ場面は、つかこうへいの『蒲田行進曲』(一九八〇年 紀伊國屋ホール)が思い出された。

 この舞台で、小夏を演じた根岸季衣を中心に、六人の役者がタキシードで登場した。石丸謙二郎、長谷川康夫、風間杜夫、加藤謙一、柄本明を従えて、ボーダーのTシャツを着ていた根岸はそれぞれの紹介をすると、舞台袖に消えた。ふたたび登場する根岸は、白い燕尾服に着替えていた。

 誤解を怖れずに言えば、このひそみにならって、加納は背広姿を含め、衣裳を考えていったのではないか。私はそんな妄想に沈んだ。

「長谷部浩のnoteより」

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